4-4 マイクロソフトvsアップル

かつて繰り広げられたPCの覇権をめぐる、マイクロソフトとアップルの競争です。両社の戦略の主軸は意外にも「模倣(+α)」です。
αは芸術性や偶然であったりします。
「模倣+α」は強烈な戦略になったりします。リバースイノベーションや中国の経済発展も「模倣+α」で考えることもできます(時間があったら説明しましょう)。

 

アップルを抜き去ったマイクロソフト
1980年代から2000年にかけてのマイクロソフトとアップルの戦いです。
古い事例ですが、競争曲線を描くと時代や業種に関係なく「似たような戦略は似たような形」になりますので、これから出てくる事例も似たような形になることでしょう。

この戦いはマイクロソフトの一方的な勝利に終わりました。(ただし、今世紀に入りアップルは奇跡の復活を遂げています)

マイクロソフトの損益情報
Yearly Income Statements(http://www.microsoft.com/msft/financial/default.mspx)
アップルの損益情報 History of Apple(http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Apple)

1995年、マイクロソフトがウィンドウズ95を発売したとき、マック(アップルのマッキントッシュの愛称)のユーザは一斉にブーイングをあげました。
画面のデザインがそっくりなのです。
操作方法も本当にそっくりなのです。
マックは今でもデザイナーやミュージック編集者といった業界人の間では根強い支持を受けていますが、日本の一般の企業、家庭では全くといっていい程使われていません(もちろん例外もあります)ので、マックの画面を見たことも無いユーザも多いはずです。

一度もマックに触れたことが無いウィンドウズユーザがマックに触れたら、アイコンの形がほんのちょっと異なっているので「このウィンドウズ、バージョンは何?」と聞くかもしれません。
かじりかけのリンゴのロゴを見たら「このウィンドウズってiPodなの?」と言うかもしれません。
日本語版で「ごみ箱(ウィンドウズ)がゴミ箱(マック)になっている」ことに気づいたら非常に鋭いでしょう。

マイクロソフトもあまりのそっくりさに気が引けたのか、マックでは画面の上に配置されているメニューバーを95では下にもってきてタスクバーと名づけました。
私もタスクバーは下にあるべきだ、と思っています。

 

マイクロソフト
1955年生まれのビル・ゲイツが初めてコンピュータに触れたのは1968年~1969年の頃です(本により若干のずれがあります)。
当時のコンピュータは「巨大な頭脳」とよばれ数百万ドルもする高価なもので、政府や大学、大企業でなければ手の届くような代物ではありませんでした。(ビルゲイツ ハードドライブ ジェームズ・ウォレス ジム・エリクソン著 奥野卓司訳 1992年12月 p27参照)
もちろんハイスクールの予算では到底買うことはできません。
ビル・ゲイツとその親友ポール・アレンが通うレイクサイド・スクールは時代を先取り(米国のハイスクールでは初)して、学校の近くのゼネラル・エレクトリック社とコンピュータのマシンタイムを借りる契約(タイムシェアリング契約)を結び、コンピュータの授業を開始したのです。
ポールとビルがコンピュータのプログラミングに強烈にのめり込んだといいます。(マイクロソフト ダニエル・イクビア スーザンL.ネッパー著 椋田尚子訳 アスキー出版局 1992年7月 24-25参照)
レイサイド・スクールのこの異例の決断が、ビル・ゲイツが19歳という若さで2歳年上のポール・アレンとマイクロソフトを設立し、世界を支配するという契機となろうとは誰にも予測できなかったでしょう。

影響力の持つ最初のパソコンはニューメキシコのMITSという小さな会社が1974年に発売した「アルテア」であるといわれています。
ちなみに「パーソナル・コンピュータ」という名称を考えたのはMISTの設立者エド・ロバーツであるとされています。
パソコンといっても今のパソコンとは大違いの「組み立てキット」でハンダごてと忍耐が必要な上に、0と1とが並んだマシン語の知識が要求されました。(マイクロソフト ダニエル・イクビア スーザンL.ネッパー著 椋田尚子訳 アスキー出版局 1992年7月 p48参照)(ビル・ゲイツ ハードドライブ ジェームズ・ウォレス ジム・エリクソン著 奥野卓司訳 1992年12月 p27参照)

英語で記述するBASICは0と1が並んだマシン語よりはるかにわかりやすい(それでも難しい・・・)のですが、ゲイツとアレンはアルテア上で動くBASICを――アルテアという現物を見ないで――開発してしまいました。(マイクロソフト ダニエル・イクビア スーザンL.ネッパー著 椋田尚子訳 アスキー出版局 1992年7月 p52-57参照)

翌1975年、ゲイツとアレンはMITSとの契約を円滑に進めるため、マイクロソフトを設立しました。(マイクロソフト ダニエル・イクビア スーザンL.ネッパー著 椋田尚子訳 アスキー出版局 1992年7月 p57参照)

このときの契約形態が重要で、この契約の形態がのちのマイクロソフトの繁栄につながることになります。
マイクロソフトはこの契約でアルテア用のBASICの権利を全て売り渡すのではなく「ライセンスの供与」としました。
これですと、将来ソフトを誰が売ろうと所有権はマイクロソフトに残ります。次々に登場するパソコンのパイオニアたち――アップル、タンディ、コモドール――にもBASIC(その他の高級言語)をライセンスというかたちで提供し、その後のソフトウェア・ライセンス契約の手本となったのです。(マイクロソフト ダニエル・イクビア スーザンL.ネッパー著 椋田尚子訳 アスキー出版局 1992年7月 p58 87-90参照)

補足・・・タイムシェアリング契約
パソコン(パーソナル・コンピュータを縮めた和製英語)が普及した今日ではタイムシェアリング契約といってもピンと来ないかもしれません。
当時は1台の(高価な)コンピュータにいくつもの端末が接続されていて、マシンタイムを借りるという契約がありました。

 

アップル
1955年生まれのスティーブ・ジョブスと5歳年上のスティーブ・ウォズニアック(通称ウォズ)がカリフォルニア州のジョブズの家のガレージでアップル(2007年1月にアップルコンピューターからアップルに社名変更)を旗揚げしたのは1976年のエイプリル・フールのことです。(アップル・コンフィデンシャル2・5J上 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月 p73参照)。

1976年、技術者ウォズはアップルⅠを開発しましたが、アップルの発展に大きく寄与したのは1977年に発売されたアップルⅡです。
アップルⅡの最大の特徴は完成品だったという点で、それまでのパソコンはキットとして売られていました。(スティーブ・ジョブズ偶像復活 ジェフリー・S・ヤング ウィリアム・L・サイモン著 井口耕二訳 東洋経済社 2005年11月p69)
アップルⅡは、どのパソコンよりも「コンピュータ」らしく見えたのです。
ちなみに、アップルはマイクロソフトとプログラミング言語BASICのライセンス契約も結んでいます。
ただし、これだけではアップルⅡが離陸し空高く飛び立つには力不足です。
アップルⅡが売れた理由は2つあるといいます。
1978年にはアップルⅡ用のフロッピーディスクが発売されたこと。
さらに1979年には世界初の表計算ソフトであるビジカルクが発売され、この世界初の「キラーソフト」はアップルⅡでしか動かなかったことです。

表計算ソフトが使えれば趣味の領域を超えてビジネスでも必須アイテムになります。(アップル・コンフィデンシャル2・5J上 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月 p88-91参照)
アップルは急成長し、1980年12月には株式を公開してジョブスは20代半ばで2億ドルを超す億万長者となりました。(アップル・コンフィデンシャル2・5J上 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月 p170-171参照)

補足・・・アップルⅠ
開発当時はアラビア数字の「1」でアップルⅡが開発されてからローマ数字の「Ⅰ」となった(アップル・コンフィデンシャル2・5J上 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月 p79参照)

補足・・・ガレージからの出発
実際の事業の開始はベッドルームであるが、ベッドルームがいっぱいになったのでガレージに移った。そのガレージは現在でも残っている。

ビッグ・ブルーの風に乗って・・・IBMの参入
1980年当時IBMは280億ドルの売上を誇り、文字どおりのコンピュータ業界のガリバーで、DEC、ハネウェル・・・・・などは一くくりで七人の小人とよばれていました。
コンピュータといってもこれらのメーカーが作っていたのは汎用コンピューターです。
「ビル・ゲイツ ハードドライブ」には「数百万ドル」と記載されていますが(ビルゲイツ ハードドライブ ジェームズ・ウォレス ジム・エリクソン著 奥野卓司訳 1992年12月 p27参照)私が上場会社の監査で実際にみた固定資産台帳には数億円から数十億円と記載されていました。

それは空調のきいたコンピュータルームに収められ、持ち運び自由な「箱」というより、小さな「家」といった感じでした。
1975年頃だったと思いますが、日本IBMに勤めていた知り合いが「今にコンピュータがアタッシュケースに入るようになるよ」と聞いて驚いた記憶があります。

さて、1980年ついに巨人が動きだします。
パソコン業界参入のためのプロジェクトを組織したのです(マイクロソフト ダニエル・イクビア スーザンL.ネッパー著 椋田尚子訳 アスキー出版局 1992年7月 p58 87-90参照)。
パソコン市場参入のために、IBMは伝統を捨ててソフトウェアベンダーを外部に探していました。
ちょうどそのときにマイクロソフトという「小さな」会社を見つけたのでした。(ビルゲイツ ハードドライブ ジェームズ・ウォレス ジム・エリクソン著 奥野卓司訳 1992年12月p182参照)

1980年当時の売上高はIBM280億ドル(マイクロソフト ダニエル・イクビア スーザンL.ネッパー著 椋田尚子訳 アスキー出版局 1992年7月 p58 87-90参照)マイクロソフト7百万ドル(ビルゲイツ ハードドライブ ジェームズ・ウォレス ジム・エリクソン著 奥野卓司訳 1992年12月p182参照)、アップルの1980年の売上は不明ですが1981年に3億3千万ドルの売上を上げています(History of Apple http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Apple)
グラフにすると規模の差が明確になります。

マイクロソフトの棒がないのでは?と疑問に思うかもしれません。
実は25ミクロン(=0.025ミリ:IBMの棒の長さを10センチとして換算)の高さの棒として描かれています(ちなみにアップルは1.2ミリ)。
グラフの軸の線の太さが0.5ミリとすると、その20分の1程度の高さしかないので肉眼で識別するのは無理。
この文字通りマイクロな会社が、後にソフト産業の巨人に成長するとは誰も思っていなかったのではないでしょうか?

1981年8月12日、IBMはパソコン業界に参入すると正式に発表しました。これに対してアップルは同月24日に「Welcom,IBM.Seriously.」(ようこそIBM いや真面目な話)とウォールストリート・ジャーナル紙の一面に余裕の広告を出しています。(アップル・コンフィデンシャル2・5J上 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月
p181参照)

実際にアップルの創立者の一人ウォズニアックは「技術的に感心する点はなかった」と言っています(マッキントッシュ誕生の真実 斉藤由多加著 毎日コミュニケーションズ 2003年10月
p50)

アップルはIBMの技術を二流とみなしていたようです。
しかし、IBMは1911年(前身の会社は1890年!)に設立された由緒ある、真面目な、そしてコンピュータの会社です。
発表から2ヵ月後に出荷されると同年末までに5万台を売りさばき、2年後にはパソコンの売上金額でアップルを追い越してしまいました。(アップル・コンフィデンシャル2・5J上 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月
p182参照)

アップルがIBMと対決したのに対して、マイクロソフトはビッグ・ブルー(IBMのニックネーム)の追い風を受けました。
IBMはOS(オペレーティングシステム)の開発を早めるために開発を外部に委託することとしました。
マイクロソフトはシアトル・コンピューター・プロダクツがQDOS(正式にはSCP-DOS)を買い取り、これを改良しIBMとライセンス契約を結ぶことになります(IBMではPC-DOと改名している)(ビル・ゲイツ 中川貴雄著 中央経済社 1995年7月 p92参照)(マイクロソフト ダニエル・イクビア スーザンL.ネッパー著 椋田尚子訳
アスキー出版局 1992年7月
p149-156参照)
これがのちにマック以外のパソコンのOSの標準となるMS-DOSです。

マッキントッシュ誕生
カリフォルニア州パルアルトにゼロックスのパルアルト・リサーチ・センター(PARC)があります。
1973年まで、現在オフィスで普通に見られるかなりのものが、ここでは既に開発されていました。
アップルの設立(1977年)、IBMのPC発売(1981年)以前の話です。

PARCからは「世界初」の技術が束になって生まれた。アルトコンピューターに加えて、最初のグラフィック・モニター、子どもでも使える最初の「マウス」、素人でも使える最初のワープロソフト、最初のLAN、最初のオブジェクト指向プログラミング言語、そして最初のレーザープリンターを生み出した。
PARCの研究者たちは、従来のコンピューティングに対するこうした新しいアプローチを「パーソナルコンピューティング」と呼んだ。
(取り逃がした未来 ダグラスK.スミス ロバートC.アレキサンダー著 山崎賢治訳 日本評論社 2005年1月 p5)

これだけの財産をゼロックスは何一つ(レーザプリンタは除かれます)事業に生かしていません。
事業に最初に生かしたのがスティーブ・ジョブズです(最も恩恵を得たのはビル・ゲイツかもしれませんが)。

ウォズニアックはアルトを見たときの感想を次のように語っています「誰も、これとは違う、古い方式のコンピュータなど二度と欲しがらなくなるだろう、一度でも所有して使ってみれば他に戻ることはないだろう」(マッキントッシュ誕生の真実 斉藤由多加著 毎日コミュニケーションズ 2003年10月 p55-56)

ジョブズはアップルに100万ドル投資することと引き換えに、PARC研究所を2回訪問する許可を得ました。
この100万ドルの投資は1年もたたないうちにアップルの株式公開によって1760万ドルの価値をもつようになります。(アップル・コンフィデンシャル2・5J上 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月 p217-218参照)

ゼロックスが日本企業のベンチマークに10段階の作業手順を作成し、非常にカネをかけたのに比べ(ベンチマーキング ロバート・C・キャンプ著 田尻正滋 PHP研究所 1995年10月p94参照)アップルは実質上一銭の支出もなくこれを行ってしまいました。
ゼロックスは(1760ドル-100万ドルの)利益は得ていますが・・・

アップルは別にゼロックスから設計図をもらったわけではありませんでした。
インスピレーションをもらったのです。
PARCの初代研究所長ジョージ・ベイクは「できるとわかったら、あっという間に開発してしまった」と言っています。(アップル・コンフィデンシャル2・5J上 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月 p219参照)

ゼロックスはなぜこれらの技術を生かせなかったのでしょう。バーニーは次のように言っています。
しかしゼロックスは、
PARCが発明した技術のなかに、非常に価値があり、稀少で、その模倣コストが大きい経営資源やケイパビリティを保有していたにもかかわらず、それらを活用できる組織ではなかった。
PARCが発明した革新的技術がゼロックス本体のマネジャーにきちんと知らされる組織構造がまったく存在していなかった。実際のところ、同社のマネジャー、しかも経営幹部まで含めて、1970年代半ばにいたるまでこれらの研究成果を認識していなかったのである。だが、ついにそれらの技術がゼロックス本体の知るところとなっても、同社の非常に官僚的な製品開発プロセスを生き残った技術はほんのわずかだった。そこでは製品開発プロジェクトが何百もの細かいタスクに分解され、その個々のタスクの進展が何十もの大きな委員会によって監視・評価されていた。ところが、こうした製品開発プロセスを何とか耐え忍んでくぐりぬけた技術でさえも、
同社のマネジャーによって活用されることがなかった。というのも、マネジャーの報酬が「現在の売上高の最大化」という目標の到達度によってほぼ決定される仕組みになっていたからである。現在の利益が報酬体系のなかでは重要視されないばかりか、将来の利益や売上げのための市場開拓はまったく評価の対象になっていなかった。ゼロックスの公式の命令・報告系統、マネジメント・コントロール・システム、そして報酬体系は、そのすべてがPARCで生み出された価値ある稀少で模倣コストの大きい経営資源の活用に適合していなかった。その当然の帰結として、ゼロックスは潜在的に持続的競争優位の源泉であるこれらの経営資源を何ひとつ活用することができなかったのである。
(企業戦略論 ジェイ・B・バーニー著 岡田正大訳 ダイヤモンド社 2003年12月p270~271)

パソコンの黎明期に、当時のゼロックスは日本企業の追撃にあい、本業のコピー機で1970年~76年に80%~95%もあったシェアが1982年には13%にまで落ち込むという大打撃を受けています(ベンチマーキング入門 髙梨智弘著 生産性出版部 2006年5月
p7参照)
コンピュータどころではなかったのかもしれません。

ゼロックスは日本企業の経営手法をベンチマークし1989年にはシェアは46%までに回復し、エクセレントカンパニーに贈られる「第2回マルコム・ボルドリッジ賞」を授与されますが(ベンチマーキング入門 髙梨智弘著 生産性出版部 2006年5月 p7)パソコンの分野ではアップル(やマイクロソフト)に簡単にベンチマークされ、販売における失敗――1981年ゼロックスはスターを発売しますが価格が16,595ドルもした――パソコン業界からは忘れ去られてしまいました。(アップル・コンフィデンシャル2・5J上 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月 p242参照)(マイクロソフト ダニエル・イクビア スーザンL.ネッパー著 椋田尚子訳 アスキー出版局 1992年7月 p240参照)(ビルゲイツ ハードドライブ ジェームズ・ウォレス ジム・エリクソン著 奥野卓司訳 1992年12月 p285参照)
しかし、その後の歴史の中に消えていったパソコンメーカーの数をみると、損失を最小限に抑えたともいえなくはありません。

互換機の風に乗って
IBMのPCは爆発的に売れました。
1981年8月から12月までの間に13,533台のパソコンを売り4300万ドルの収益をもたらした。
1983年末までには50万台以上のパソコンを売りさばき、IBM-PCは市場に出回っているどの機種をも制圧してしまいました(ビルゲイツ ハードドライブ ジェームズ・ウォレス ジム・エリクソン著 奥野卓司訳 1992年12月 p279参照)。

IBMのパソコン販売は順調に滑り出しでしたが、一方で困ったことが起こっていました。
IBMがパソコン業界に参入したときには互換機やクローンという言葉さえなかったのですが、1982年テキサス州ヒューストンに本拠をもつコンパックがIBM-PC互換機を発表したのです。
コンパックは爆発的に売れ、1981年に1月に販売を開始するとその年だけで1億ドルを売り上げてしましました。
同社は会社創立3年目にして「フォーチェン」誌の全米トップ企業500社のリストに入り、アップルの5年目という記録を破ってしまったのです。

IBMは意図してコピーしやすいパソコンをつくったのではありませんでした。
ハードウェアの80%を他社の部品を使用するという、いわゆる「オープンアーキテクチャー」を採用したのは、開発期間1年というスケジュール自体に時間的余裕がなかったからです。

それまでのメーカーは自社のマシンが他社とは異なることを目指していました。
ところがコンパックはIBM-PCと「同じ」ことを目指したのです。IBM-PC用に開発されたソフトならばどれもコンパックのマシンで走らせることができます。(ビルゲイツ ハードドライブ ジェームズ・ウォレス ジム・エリクソン著 奥野卓司訳 1992年12月 p304-305参照)。

競争のルールが変わってしまったのです。
1984年5月には新聞などに広告を出して電話注文でパソコンを製造販売するというユニークな会社も設立されています。こ
の会社「デル」の創立者マイケル・デルはIBM-PCを分解して、通常、IBM-PCの店頭での販売価格は約3000ドルもするのに部品は600~700ドルで特にIBM独自のテクノロジーが使われていないことを早くから発見していました。(デルの革命 マイケル・デル 國領二郎監訳 日本経済新聞社 1999年7月 p22 p28-29 )

IBMは急激にシェアを落とし始めたのです。(アップル・コンフィデンシャル2・5J上 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月 p220参照)
IBM互換機が誕生した理由はIBMが部品をオープンにしたからだけではありません。
いくらIBMと同じ部品でパソコンを組み立てても、これらを制御するDOSが異なればIBM-PC用に開発されたアプリケーションは走りません。
IBMがDOSを自社開発していれば、IBMは互換機を市場から締め出すことができのです。
ところが、このパソコンの心臓部ともいえるDOSはマイクロソフトが開発し、IBMにライセンスするという契約形態になっていました。
マイクロソフトはこのDOSを互換機メーカーにもMS-DOSとしてライセンスしたのです。

もしも、IBMが当時名もないマイクロソフトにDOSの制作を依頼していなかったら、今のマイクロソフトはありません。
偶然は戦略よりも強しですね。

MS-DOSはマック以外のパソコン――IBM互換機――の標準となっていきました。
現在市場に出回っているマック以外のパソコンはIBM-PC(IBMはPCの後継機としてXT,ATをリリースしている)互換機の子孫です。

IBMなのですが2004年にパソコン部門を中国のレノボ(聯想集団有限公司)に売却してしまいます。
私が最初に買ったノートブックはIBMでした。

 

ウィンドウズvsマッキントッシュ 破壊的模倣(模倣+α)

ウィンドウズ
1991年のニューヨーク・タイムス紙には、ウィンドウズはマックのオペレーティング・システムをコピーしたものだというような記事が載っています。
この手の記事は何もニューヨーク・タイムス紙に限らず、当時の新聞や雑誌を漁ればかなり見つかります。
ウィンドウズのマック化は当時のパソコン愛好家でしたら誰でも知っています。

それはそうでしょう・・・ウィンドウズ機にマックのような「マウス」が付いたのですから・・・・

ところが、ビル・ゲイツは「ウィンドウズとマックは兄弟だ」と言っています(マイクロソフト・ウィンドウズ戦略のすべて 岩淵明男著 TBSブリタニカ 1993年10月 p122)

これはある本当のことで、というのもマックよりも先にゼロックスではスターというGUI環境のパソコンが開発されていたからです。
アップルもマイクロソフトもゼロックスのPARC研究所から優秀な人材を引き抜いています。

とてつもなく大きな革新的なアイデアを次々と誕生させていったPARCの研究者は、そのアイデアが市場に出なかったり、出ても販売面で失敗するゼロックスの官僚的な文化に嫌気がさしていましたので(ビルゲイツ ハードドライブ ジェームズ・ウォレス ジム・エリクソン著 奥野卓司訳 1992年12月 p333参照)、ゼロックスの退職希望者を見つけるのは苦労はしなかったようです。

しかし、GUIという技術面では兄弟かもしれませんが、マックの方がはるかに洗練されていました。1
983年のコムデックで発表され1985年に販売されたウィンドウズ1.0はレビューで酷評され、(アホでマヌケな米国ハイテク企業 メリル・R・チャップマン著 インプレス2004年5月 p134-135) やっと出てきた「ウィンドウズ1・0」の画面は明らかにマッキントッシュに比べて見劣りがしたのです。(ビル・ゲイツ 中川貴雄著 中央経済社 1995年7月 p103)

ウィンドウズ2.03ではさらにマックに似たものとなっていき、ついには訴訟合戦となります。
1998年3月にアップルはマイクロソフト(とそのパートナーであるヒューレット・パッカード)に対し55億ドルの損害賠償付きの訴訟を起こしました。
争点は「ルック・アンド・フィール(見た目や使い心地)」をまねており、アップルの著作権を侵害したということです。(アップル・コンフィデンシャル2・5J上 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月 p389-391参照)

実は1989年にゼロックスもリサとマックのユーザインタフェースに関してアップルを告訴しています。
このゼロックスの告訴は翌年の1990年3月に棄却されています
。一方、アップルとマイクロソフトの法廷闘争は1000万ドルを費やし7年もかかりました。
1995年2月、連邦最高裁はマイクロソフトが有利なままアップルの上告を棄却しました。(アップル・コンフィデンシャル2・5J上 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月 p389-396参照)
・・・訴訟になるくらい似ていたのです。

マックの本当のファンはビル・ゲイツかもしれません。
「ビルゲイツの罪と罰」では、ゲイツはウィンドウの開発において「マックのようにしろ」といったことになっています。
今ではワードでもエクセルでも、ページの右側に表示されるスクロールバーは、バーの長さが変化して、文章全体のなかでどれほどの部分を表示しているか分かるようになっています。
この機能はウィンドウズの初期のバージョンから設計されていたのですが「マックに似せるべきだ」という理由で採用されませんでした。(ビルゲイツの罪と罰 マーリン・エラー ジェファニー・エズトロム著 三浦明美訳 ASCII 1999年3月p75)(アップル・コンフィデンシャル2・5J上 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月 p391より)

ウィンドウズはバージョンを2・02(1987年)・・・・・3・1(1992年)と、バージョンアップのたびに外観をマックに近づけていきました。そして95(1995年)に至っては見分けがつかないほど似てきたのです。

 

 

競争曲線で競争の仕組みを俯瞰してみましょう。

機械へのこだわり
マイクロソフトはパソコンを製造していないので機械へのこだわりは全くありません。

マウス
私が一番最初に買ったNEC9800VM2にはマウスはついていませんでした。
今から考えると、マウスなしでどうやってパソコンを操作できたのか不思議でなりません。

操作性 デザイン
パソコンを立ち上げると左上に「A:>」という文字が現れ、ファイルのコピーもフォーマットも、フロッピーディスクにどのようなファイルがあるかを見るのも、全てキーボードからプロンプト(命令文)を打ち込まなければなりませんでした。

マウス、画面の操作性、デザイン全てマックの方が優れていました。

ところが互換性となるとウィンドウズの方が圧倒的に優勢です。
初期のウィンドウズはMSDOS(マイクロソフトディスクオペレーティングシステム)の上で作動し、マック以外のほぼ全てのパソコンはMSDOSを採用していたからです。

アップルの戦略上の最大の失敗は、アップルは自社をハードウェアの会社だと思っていたことです。
・・・・ですのでOSのライセンスをしませんでした。
「これが間違いだった」とアップルの共同設立者のウォズは言っていますし(アップル・コンフィデンシャル2・5J上 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月p220参照)、イアン・W・ダイアリー(アップルの上級副社長)も「もっと早くライセンス供与を始めていたら、我々は今日のマイクロソフトになっていただろう」と言っています。(アップル・コンフィデンシャル2・5J上 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月 p186-194参照)

ウィンドウズがマックに追いついたのはウィンドウズ95ですので、もし、アップルがマックのOSを早い時期からデルやコンパックにライセンスしたらマックが標準(=ウィンドウズ)になったのは確実でしょう。

マックが標準になれば痛手を被るのはマイクロソフトです。
ところが意外というか、これは本当に驚くべきことなのですが「マック互換機構想」の最大の推進派はビ・ル・ゲ・イ・ツでした。
ビル・ゲイツはアップルに機械へのこだわりを捨てて、マックを標準にするようにアップルに忠告しています。

ビルゲイツは1985年6月25日にアップルのCEOジョン・スカリー宛に丁寧な手紙を書いています。
その手紙でゲイツは「ライセンスを供与するにあたって、ヒューレットパッカードならだれに話をもっていけばいいか、AT&Tなら誰がいいか」ということまで含めて、アップルの大戦略を手とり足とり教えています。
返事が来なかったので7月29日に2通目の手紙を出し、「私はライセンス事業に関してどんな協力も惜しまないつもりです。どうか電話してください」とまで言っているのです。

ビル・ゲイツに、またまた幸運の女神がほほ笑みました・・・何とアップルはビルゲイツの提案を蹴り、OSの「標準」となることを拒んだのです。

実はマックにも互換機があり、アップルは互換機一台について50ドル受け取っていました。
(私の友人もマック互換機を買っています)
しかし、アップルのCFOChief Financial 最高財務責任者)は別のことを考えていたのです。
ハイエンド機の場合ですが、互換機メーカーが1台売るたびにアップルがその10倍の損失をこうむっていると考え、互換機メーカーはアップルのシェアを奪うものとみなされたのです。(アップル・コンフィデンシャル2・5J下 オーウェン・W・リンツメイヤー 林信行著 アスペクト 2006年5月 p207参照)

さて、マイクロソフトは1995年見た目、操作性・・・全てマックそっくりのウィンドウズ95をリリースしました。

アップルは1996年に816百万ドルもの純損失を計上し、翌1997年にはこれを上回る純1045百万ドルの損失となっています(History of Apple Inc. http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Apple)。
1997年、倒産の危機瀕したアップルに対する支援としてマイクロソフトは150百万ドルを出資しています

さて、ここがビジネスの面白いところなのですが、アップルはマイクロソフトにはなり損ねましたがこれが失敗かというとそうではなさそうなのです。
アップルは優れたデザインのパソコンメーカーで弁護士や医者、音楽関係者、そして女性にもてたい男性の強烈な支持を維持しています。
また、その昔ソニーが考案したビジネスモデルを頂いて(注)、iPodを開発し音楽業界に革命をもたらしました。
一方のマイクロソフトはリナックス、あるいはそれ以後出てくるOSの脅威に遭遇するかもしれません。

(注)ソニーはその昔パソコンを中心としたアップルのビジネスモデルの構想を電車の中吊りに掲載していました。また、創業者の一人、盛田昭夫氏の遺影を映し出してその前で追悼のスピーチをしています。