模倣“も”素晴らしい 2 日本人と模倣

中小企業の経営者を対象にした模倣戦略の入門編として書いています。

模倣戦略は「ベンチマーク(ベンチマーキング)」として米国で理論化されました。ただし、このベンチマークは何と日本企業の行動を研究して理論化したものです。
日本企業の研究から誕生した理論としては、ベンチマークのほかに制約条件理論などがあります。

日本企業の研究から生れた理論は、日本人の漠然とした行動を理論化していますので、あいまい性が理論として純化され理解しやすいという一面があります。
ただし、日本人としてはたかが模倣に何段階も踏んで「何てまだるっこしい」と思ってしまったりもします。
それに、日本人が模倣戦略に関する本を読もうとすると、事例が馴染の無い外国企業のばかりですので、とっつきづらいことこの上ありません。
オランダやベルギーの会社の名前なんて、ほとんど知りませんよ。
模倣戦略に書かれた本を紹介したら、難しくて辟易(へきえき)したという方がほとんどでした。

ここで改めて言いたいことは「日本人にとって、模倣は空気を吸うように自然だ」ということです。ただし、「自然だ」ということは、人に言われるまで気が付かないということでもありますが・・・。
ま・・・本来の姿に戻り、模倣をもう少し気軽に&簡単に考えましょう。

日本における模倣の歴史はとても古く、というか、模倣そのものが日本文化の本質の一部となっているようです。
奈良・京都は間違いなく日本的文化を象徴する古都です。しかしながら、それは中国、韓国の模倣の文化でもあります。
奈良、平安時代には遣隋使、遣唐使を派遣し、積極的に先進国中国、韓国を模倣しました。模倣は文字、建築、宗教、制度等々、広範に及びます。
日本人はそれらを日本の風土に適合させ、オリジナルとは異なる独自の文化を築いたのです。

海外の模倣の事例なんて、日本中に溢れかえっていますが、ここでは象徴的な模倣の事例をいくつか挙げてみましょう。
まずは、日本で軍事革命を起こした1543年の鉄砲伝来。

種子島の藩主はポルトガル人から鉄砲2丁を2億円(2千両)くらいで買い取りました。
「これは美味しい」と思ったポルトガル人は、次に来日したとき、鉄砲をたくさん積んで来ましたが、2度目のおいしいコヒーは飲めませんでした・・・日本中に鉄砲のコピーが溢れていたのです。

鉄砲そのものは模倣だったのですが、その使用法は独創的です。1575年に織田・徳川と武田との間で起こった長篠(ながしの)の戦いでは、織田方は3000丁の銃を3列に配して、順番に打たせるといった鉄砲三段撃ち戦法を用いて、武田方に壊滅的な打撃を与えています。
(この鉄砲三段撃ち戦法は江戸時代に講談師が考え付いたものだとする説もあるようですが、この戦法を考え付いた講談師がスゴイですね)

また、この鉄砲、当初は模倣した技術なのですが、製造された鉄砲の数が圧巻です。
1600年の関ヶ原の戦いで使用された鉄砲は5万丁(数説あり)ともいわれ、全世界の鉄砲の50%にものぼり、ヨーロッパから遠く離れた極東の島国=日本が世界一の鉄砲保有国だったのです。模倣先のポルトガルを抜いてしまったようです。

明治維新にも日本はヨーロッパ文明を、広範囲に及び模倣していますし、第2次大戦後は主に米国を模倣しています。
日本人は、他国の優れた技術、文化をためらいもなく取り入れて、自国の風土に「適合」させ、独自の日本文化を築いてきました。

私は今まで模倣戦略に関する欧米の著者の訳本を経営者に紹介してきました。しかし、模倣戦略が仰々しく書かれています。
模倣がいくつもの階層構造をとり(要するに小難しく書いてあり)、本を読んだ経営者から「模倣というのは難しい」という声を何度か聴きました。
ん~確かに小難しく書かれていることもありませすね。

模倣して、模倣したものを超える・・・世界一の模倣大国の日本人である私が言うのだから間違いありません。
「欧米人は模倣を難しく考え過ぎています」。
あまり考え過ぎずに、過去何千年もしてきたように(日本人は)DNAに従って行えばよいのです。
・・・と言いつつ、模倣に関する理論を書いていますが・・・。

模倣に対する親近感がわいたでしょうか????????