Amazonで行動経済学の経済学の本を検索していましたらNewsweekの「経済超入門 ゼロからわかる経済学&世界経済の今」という本が目に入りましたので、「カート」に入れておきました。
この本の第1章、第1節、第1項(つまり一番最初に取り上げられている項目)は「1経済は選択に関する学問」ということであり、文中「お金もモノも限られている。何をどれだけ選ぶか。経済はそうした選択に関する学問である」と、明朝の文章から浮き出て読者の注意を引くように、わざわざその箇所だけ目立つような“太字のゴシック”で書かれています(ニューズウィーク日本版ペーパーバックス 経済超入門 ニューズウィーク日本版編集部 2010年6月 p12)。
市場というのはモノとモノとが交換される場所のことなのですが、この交換の根底にあるのが「選ぶ」あるいは「選ばれる」という「選択の関係」です。
私は、経済学でいうところの「市場」、私の理論では「セレクション・ネット」を、目には見えない経済的な「選択関係」で繋がれたネットワークであると捉えています。ネットワークのノード(結び目)はもちろん「人」(集団を含む)です。この、選択関係の上を、モノの交換を伴う実際の選択が流れていきます。これをビジュアル化したのがセレクション・ネットです。
この選択の主体である人と人とを結ぶ「選択関係」は「関係」ですので目には見えません(恋人と恋人を結ぶ「赤い糸」、夫婦関係でいうなら「鉄の鎖(錆びると赤くなります)」が目に見えないのと同様です)。
ネットワークのノード、つまり選択の主体は「人」なのですから、どのような人を想定するか?という人間像に関する問いは、その上に理論が構築される、いわば理論の「土台」に関するものなのですが、従来の経済学(行動経済学者が言うところの標準的経済学)が想定する人間像は「経済人(ホモ・エコノミクス)」で、合理的で利己的という2つの特徴を持っています。
1.合理的
「まず、自分の嗜好(好み)が明確であり、それには矛盾がなく、常に不変であること。そして、その嗜好に基づいて、自分の効用(満足)が最も大きくなるような選択肢(たとえば商品)を選ぶということである」(行動経済学 経済は「感情」で動いている 友野典男 光文社文庫 2006年5月 p15)。
その前提として、情報は全て収集できて、しかも分析まで出来てしまうというものです。
2. 利己的
「他人のことは一切顧みず、自己の物質的利益を最大にすることだけを追求する利己 的な人間だということである」(行動経済学 経済は「感情」で動いている 友野典男 光文社文庫 2006年5月p18)。
つまり普通の利己的ではなく、『超』利己的であるということです。
1の合理性について
2010年11月に「いつものメンバー(家内とその友人の奥様方)」と韓国に行きました。
総勢8人のツアーで男性は私だけです。
多勢に無勢とはこういうことを言うのでしょうか?
当然のように私は奥様方のショッピングに付き合わされることになります。
釜山の国際市場を見物して次の観光地、釜山博物館に向かうマイクロバスの中で、ガイドの李さんが
「男性が女性のショッピングに付き合うと、男性は戦争に行ったのと同じストレスを感じる」
と説明してくれました。
情報量が多すぎて男性の頭では処理しきれず、パニック状態になるそうです。
韓国に到着した日に、北朝鮮が韓国の延坪島(ヨンピョンド)を砲撃したばかり。新聞・テレビでこのニュースで大々的に取り上げられて「一つ間違うと本当に戦争が始まるかもしれない」という臨場感にかなりの緊張。
李さんの説明に妙に納得させられました。
さて、合理性ですが経済学者の言う合理性というのは、私たちの想像を絶した特別の意味があります。
全ての情報を収集・分析し、その中から自分にとって一番好ましいというものを選択することができる・・・・・というサイモン流に言うと「全知全能の神のような存在」です(行動経済学 経済は「感情」で動いている 友野典男 光文社文庫 2006年5月 p15)。
私がショッピングに付き合わされるとき、私の脳は全知全能の神のように合理的に振舞おうとしているのかもしれません。
さて、するとどうなるでしょう・・・・・??
私は奥様方の買い物には興味はなく、ほとんど無関心です。
無関心であるがゆえに、数十万と言われる商品の情報の洪水が、無意識のうちにそのまま目から入ってきます。
一方脳の方は、情報の洪水に驚いて、分析どころかパニック状態に陥り、ガイドの李さんが言うような「銃弾が飛び交う戦場に立たされたと同じ」ストレスを感じることになります。
それでは、奥様方がショッピングでなぜ疲れないかというと、全ての情報を集めないからです。
感情や直感といったフィルタが付いており、選択肢を狭くしてるのですね。
選択肢の数が増えると葛藤が始まって、しまいには判断力が落ちるということが知られていますが(経済は感情で動く マッテオ・モッテルリーニ著 泉典子訳 紀伊国屋書店 2008年4月p29)、適当なところで選択肢を切り捨てていますので、葛藤は感じないようです。
「どうして買い物に夢中になれるの?」と奥様方に聞いたところ・・・「だって楽しいじゃん(横浜弁)」とのことでした・・・
さて、2の利己的であるという仮定です(こちらが本題です)
もちろん、人は完全に利他的ではなく、むしろ利己心の塊りに近いのかもしれません。
しかし、だからといって完全に利他性がないかというと、そうでもありません。
私は家内から「私が死んだら臓器を“誰か”(もちろん赤の他人)にあげてくれない?」と頼まれています。
理由は?・・・「誰か困っている人の役に立ちたい」です・・・彼女自身臓器提供を受けるなどとは、みじんも考えていないようですので、動機的にはこれは利他的でしょう。
私もドナーになることを望んでいるのですが、それは私が死んでからの話で、見ず知らずの人に「あなたの肝臓がほしい」と言われても、おいそれと渡すわけにはいきません。
臓器を提供するというのは、それにより誰かが助かるかもしれない利他的な行動ですが、死んでから臓器を提供するというのは、少なくとも痛みを伴ったり、それによって健康を害する心配はないという意味で自己犠牲を伴うものではありません。
ところが、行動経済学で研究されているのは自己犠牲の伴う利他性です。
人の利他的な行動については経営学よりも経済学の分野で研究が進んでいます